ハナさんキッチン

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日本は信長に習うべきか

中東シリアで、日本人が殺されました。首を切られたようです。

ヨルダンのパイロットは、火あぶりの刑だったそうです。

現代ではなく、中世の感覚ですね。

 

さて、斬首に火あぶりというと、血なまぐさいことですが、それは現代社会の感覚なのであって、400年くらい前では世界中で行われていました。

日本でも、現代憲法が禁止する「残虐な刑罰」がいっぱいあって、ノコギリ挽きや、磔(はりつけ)、打ち首なんかがあった時代もありましたよね。

石川五右衛門は釜茹ででした。

それじゃあ「イスラム国」がやっていることは良いかというと、そういうわけでなく、平和な現代社会では許されないことです。時代錯誤もはなはだしい。

 

しかし、中東情勢を見ていると、「日本の戦国時代もこんなふうだったのかなあ」と思うときがあります。

中東は部族社会だそうです。戦国時代の日本で言うと、部族長は戦国大名でしょうか。

部族長が戦国大名なら、「イスラム国」は「加賀一向宗」でしょうか。「加賀は百姓が持ちたる国」といいますから。あるいは石山本願寺、比叡山延暦寺でしょうか。当時はいずれも巨大な武装勢力でした。

 

加賀一向宗、石山本願寺、比叡山延暦寺と戦った戦国武将といえば、織田信長。

一向一揆に対しては徹底的に戦い、敵は女子供の別なく殺したそうです。門徒を家に押し込め火を放ったりもしたそうです。なぜこんなことをしたかというと、宗教勢力の武装解除が目的だったから。

 

宗教と武力は一致しています。

キリスト教は、「宣教師が来て、商人が来て、軍隊が来る」

イスラムも「武器を取るかイスラムを取るか」

平和といわれる仏教も「一向一揆」とかがあります。

いずれも宗教の本質ではなく、政治利用にされた側面もあるといわれていますが、一神教の宗教の凶暴性は、他の宗教を上回るのではないでしょうか。旧約聖書の「ヨシュア記」では、他民族を「皆殺し」にしています。愛と平和は同じ神を信ずるものだけで異教徒は関係ないというのが一神教の立場のようです。異教徒は悪魔を信ずるから滅ぼしたほうが良いという考えです。

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 さて、タイトルの「日本は信長に習うべきか」は、日本が宗教の武装解除を目指したらどうか、ということです。現在の日本は「積極的平和主義」を目指しています。特定の宗教の皆殺しはヒトラーがやったホロコースト、または中国共産党の文化大革命であり、古代や中世ならいざ知らず、現代では許されません。それをやったら「イスラム国」と同じになってしまいます。

武力でなく、ソフトパワーで、少しづつ武器を放棄させることが理想ですが、神を信じることが前提の人たちには何を言っても無理でしょう。宗教はある意味でもっとも強力なソフトパワーですから。

宗教指導者が「新しいコーランの経典が発見された。今までの解釈は誤りだ。」と言って宗教改革をやってくれれば良いのですが・・・未来から見たら、「イスラム国」の行動が宗教改革で、現在は第4の一神教が誕生してる最中だったりして・・・

宗教改革は他の一神教の宗教でもやってほしいものです。神様はたくさんいるよ、となってくれれば一番良いのですが。他の神様を認めるということは、その宗教を信ずる人を認めることですから。

 

「唯脳論」や「バカの壁」で有名な養老孟氏によれば、2万年くらい人間の脳の容量は変わっておらず、脳の構造も大きく違いないので、どんな人でも共通点や同じ思考や行動が見られるが、自分以外は別の個なので、他人と意思疎通するのは難しいそうです。

脳というハードウェアに収まった、宗教というOSを、現代向けにバージョンアップしなくては、平和が訪れないような気がします。どうやってバージョンアップするのかが問題ですね。

 

歴史をみれば未来がわかるかもしれません。古代の殺戮を認めるなら、平和はおとずれないでしょう。あるいは、古代や中世と同じように、異端として抹殺する(される)しかないのかもしれません。