10日後の3月27日は、「3」「2」「7」、「ミ」「ツー」「ナ」リ、「みつなり」ということで、
石田三成の日
です。
え~、強引!
そんなのシラないよ!
始めて聞いたよ!
誰が勝手に決めたの?
って思ったでしょ。ハナさんもそう思いましたよ。
でもね、これ、
滋賀県が決めた
んですって。
それで、そのCMがこちら。
武将と、いえばミツナリ~♪ 石田三成~♪
石田三成とは
ここで、石田三成についておさらいを。
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で誕生。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている。
慶長5年(1600年)10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。
石田三成 - Wikipedia から引用
西暦1560年に現在の滋賀県の長浜で生まれて、いろいろあった後、西暦1600年に京都の六条河原で斬首されたんですね。
えっ? いろいろってナニ? あいだが抜けている?
それじゃあ、説明しましょう。
三献のお茶
近江国伊吹山の観音寺(伊香郡古橋村の三珠院という説もあり)に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は
最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、
次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、
最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。
まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな知恵配り・心遣いに感じ入った秀吉は彼を家来として採用した。それが後の石田三成である、という逸話がある。
石田三成 - Wikipedia から引用
ということですけど、この逸話は江戸時代から言われるようになったようですね。
石田家は近江長浜の土豪で、秀吉が長浜に入った時に石田家が秀吉に仕えて、三成は小姓になったようです。その時の逸話なのかな。
そして、石田三成はコレを機会に秀吉に認められて、いろいろあった後、西暦1600年に京都の六条河原で斬首されたんですね。
えっ? まだ業績があるって?
忍城攻略戦
小説、映画「のぼうの城」で皆さんご存知の忍城攻略戦。
ハナさんは小説を読んで、DVDも見ましたよ。
まあ、敵役ですから、かっこ悪く描かれていますね。
でも、小田原城攻めの時、小田原方の支城は小田原城より早く落ちたけど、忍城は陥落しませんでした。しかも、水攻めを仕掛けたんですよね。費用対効果とかはどうだったんでしょうか。
結果から見たら、忍城側の方が強かったということですよね。
北条討伐後、天下統一を果たした秀吉の側近として、石田三成は我が世の春を謳歌したのですが、いろいろあった後、西暦1600年に京都の六条河原で斬首されたんですね。
えっ?
大事なものが抜けてる?
関が原の戦い
豊臣秀吉没後、徳川家康が勢力を伸ばしてきます。
加藤清正、福島正則ら秀吉小飼の武将たちも、家康側につきます。
三成が武闘派の武将たちに好かれていなかったことと、秀吉の正妻おねが武闘派の武将たちを徳川方に味方させたとかさせなかったとか。おねにとっては、秀吉と側室淀君の間に生まれた秀頼が豊臣家を継いだのことが面白くなかったのでしょうか。
そして、徳川家康に匹敵する勢力と影響力を持っていた前田利家が病死すると、徳川家康と三成は対立し、関が原の戦いへ。
関ヶ原の戦いで争った二派は、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍である。東軍・西軍の諸将の多くは豊臣恩顧の武将であり、この戦いの性格について家康は豊臣家の家臣同士の成敗合戦(豊臣家に仇為す者を成敗する)という建前をとり、また、豊臣家も表向きは静観の立場を取った。しかし、この戦いは実質的に徳川家康の覇権を決定づけることとなった。
関ヶ原の戦い - Wikipedia から引用
そして、関ヶ原の合戦は西軍有利と思われたものの、総大将の毛利元就が足止めされて戦線に参加できなかったり、小早川秀秋らの裏切りで、西軍は壊滅、諸将は逃走した。
石田三成は伊吹山に逃れたものの、姉川あたりで捜索隊に見つかり、生け捕りにされる。
9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。
石田三成 - Wikipedia から引用
晒し者にされた後、家康の名により、西暦1600年10月1日、京都の六条河原で斬首されたんですね。41歳でした。
石田三成のイメージ
石田三成は、優秀な人物であったようです。しかし、武闘派の武将からは好かれなかった。
どこの組織でもいると思いますが、優秀な部下を幹部にしたけどリーダーの器じゃなかった、という感じなのかな?
命令を忠実に、より良い形で実行する。部下としては優秀だったんでしょう。しかし、多くの人から愛されるカリスマ性とか、人を動かす力とか、判断力とか決断力は人並だったのでしょうね。少なくとも、秀吉や家康には及ばなかった。
秀吉がいたからNo.2の三成が輝いていたのではないでしょうか。ハナさんはそんなふうに感じます。
さて、
関ヶ原の戦いで徳川家康と戦った石田三成は徳川の敵役ですから、徳川の治世約260年の間、悪く言われ続けました。
この江戸時代に作られた文物をもとに後の時代の作品が出来上がるので、三成のイメージは悪くなってしまうのですね。
だけど、地元の滋賀県にとっては「郷土の英雄だし、地元で語り継がれている話では良いお殿様なのだから、名誉を回復して地元のPRにつなげよう」ということでYouTubeに動画をアップしたのです。
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でも・・・
コレですよ。
仏壇の宣伝みたい・・・
まぁ、それを狙ったんでしょうけどね。
詳しくは 石田三成×滋賀県 ポータルサイト【石田三成CM 公開!<公式>】 をどうぞ。